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東京国立博物館 平成館
東京国立博物館 平成館
〒110-8712 東京都台東区上野公園13-9


特別展
 始皇帝と大兵馬俑

THE GREAT TERRACOTTA ARMY of CHINA'S FIRST EMPEROR

陝西省の19の博物館から精選した約 120 件の貴重な文物が結集!

 今から約2200年前、秦の国王・嬴政は中国大陸にはじめて統一王朝を打ち立て、「最初の皇帝」 という意味の始皇帝を名乗りました。 その巨大な陵墓のほど近くに埋められた、約 8000 体の陶製の兵士や馬などからなる 「兵馬俑」 は、20世紀最大の考古学的発見のひとつといわれ、1974 年の正式な発掘調査以来、新しい知見と驚きをもたらし続けています。
 本展覧会は、最新の発掘成果を取り入れながら、兵馬俑をはじめ、秦王朝と始皇帝にまつわる貴重で多彩な文物を一堂に紹介するものです。 中国辺境の一小国だった秦が天下統一に向かって成長していく過程には、さまざまな出来事がありました。 秦とライバル国・遊牧民、さらには西周王朝とのかかわりを物語る青銅器・金銀器・土器などを通して、その道のりをたどります。 また、「将軍俑」 や 「騎兵俑」 「雑技俑」 などバリエーション豊かな兵馬俑を核として、絶対権力者だからこそ実現できた高度な技術と圧巻の造形美をご覧いただくとともに、始皇帝が空前の規模で築き上げた陵墓の 「永遠なる世界」 の実像に光をあてます。
 兵馬俑はこれまで数多くの国や地域で展示され、人気を博してきましたが、本展では斬新な内容と展示手法によって、始皇帝と兵馬俑の全貌に迫ります。 この展覧会が、日中両国のさらなる親善と相互理解を深める好機となることを願ってやみません。  【主催者】


会期:2015 10/27(火) ~2016 2/21(日) 巡回展は終了しました。
開館時間:午前9時30分~午後5時
(※入館は閉館の30分前まで。)
休館日:月曜日、年末年始 2015 12/24(木)~2016年1/1(金・祝)
(※ただし、2016 1/11(月・祝)は開館、1/12(火)は休館。)

会場: 東京国立博物館 平成館 (上野公園)
巡回情報: 九州国立博物館 福岡 2016 3/15(火)~6/12(日)

国立国際美術館 大阪 2016 7/5(火)~10/2(日)



'2015 10_26 「始皇帝と大兵馬俑展」報道内覧会の会場内の風景です。 画像をクリックすると大きな画像でご覧いただけます。

「始皇帝と大兵馬俑展」東京国立博物館 平成館

© 陝西省文物局・陝西省文物博物局・秦始皇帝陵博院

報道内覧会 '2015 10_26 「始皇帝と大兵馬俑展」
東京国立博物館 平成館


地底の都の栄華

―始皇帝が夢見た 「永遠の帝都」―


「展示構成」―本展覧会 図録 「始皇帝と大兵馬俑展」、 PRESS RELEASE より抜粋して掲載しています―

 本展覧会は、最新の発掘成果を取り入れながら、兵馬俑をはじめ、秦王朝と始皇帝にまつわる貴重で多彩な文物を一堂に紹介するものです。 秦とライバル国、遊牧民、さらには西周王朝とのかかわりを物語る青銅器・金銀器・土器などを通して、その道のりをたどります。 また、「将軍俑」 や 「騎兵俑」 「雑技俑」 などバリエーション豊かな兵馬俑を核に、始皇帝が空前の規模で築き上げた陵墓の 「永遠なる世界」 の実像に光をあてる Ⅲ 章の構成になっています。

「本展の構成」
第Ⅰ章 秦王朝の軌跡 ―周辺の小国から巨大帝国へ
第Ⅱ章 始皇帝の実像 ―発掘された帝都と陵園
第Ⅲ章 始皇帝が夢見た 「永遠の世界」 ―兵馬俑と銅車馬


'2015 10_26 報道内覧会「始皇帝と大兵馬俑展」の各章の概要と会場内展示風景です。

第Ⅰ章 秦王朝の軌跡 ―周辺の小国から巨大帝国へ

第Ⅰ章 秦王朝の軌跡 ―周辺の小国から巨大帝国へ
Ⅰ-1 西周王朝を継ぐ / Ⅰ-2 他国との競合 / Ⅰ-3 秦文化の洗練 / Ⅰ-4 北方草原からみた秦―異文化との交流

 中国では紀元前2000年頃、黄河中流に初めて王朝が誕生した。 夏・殷・周はまとめて初期王朝と呼ばれ、 前9世紀の西周時代にようやく歴史の表舞台に登場してきた小国・秦が、約700年間を経て競合する国々との争いを勝ち抜き、中国で初めての統一帝国を築き上げるとともに、周王朝の古い支配体制に終止符を打つこととなった。
 秦で初めて王を名乗った君主は、恵文王(在位:前338~前311)で、その子、昭襄王(在位:前307~前251)は韓・魏・趙・楚などの領土を奪い、天下のほぼ西半分を手中に収めた。 嬴政(在位:前247~前210)が王位につくと、前230年、韓をはじめ他国を破竹の勢いで攻め滅ぼし、前221年に斉を滅ばして天下を統一すると、中国で初めての皇帝 「始皇帝」 となった。

・4 《玉胸飾り》 一連 玉・瑪瑙 縦 56.0、 最大幅 30.0 西周時代・前 10~前 9 世紀 扶風県強家村出土 宝鶏市周原博物館
© 陝西省文物局・陝西省文物博物局・秦始皇帝陵博院

 玉 ―王侯のよそおい 西周王朝は身分の上下を明らかにし、その厳正な区分によって社会の秩序を保とうとした。 身分の上下による区別は、「佩玉」 (さまざまな形の玉器と、ときに玉以外の材質、たとえば瑪瑙・水晶などで作った珠や管玉に紐を通して一連のものとした、複合型の装身具 《玉胸飾り》 など) の形状の違いにまで及んだ、という説もある。
 本作は西周時代後期の貴族墓で出土した。 後の春秋時代に西周王朝の故地へ進出した秦にとって、西周の洗練された玉器は憧憬の的であり、受け継ぐべき権威の象徴でもあった。


第Ⅱ章 始皇帝の実像 ―発掘された帝都と陵園

第Ⅱ章 始皇帝の実像 ―発掘された帝都と陵園
Ⅱ-1 統一の事跡 / Ⅱ-2 帝都のにぎわい / Ⅱ-3 宮殿建築の片鱗

 嬴政、後の始皇帝が誕生したのは、前 259年、秦から遠く離れた趙の首都・邯鄲であった。 この頃、中国では秦・趙などを含む七つの大国を中心に戦争が繰り返され、各国は安全保障のため王族を人質として他国に送り込んだ。 嬴政もまた、秦の昭襄王が人質として趙に送った孫・子楚の子として生まれた。 子楚は秦の王位を継いで荘襄王(在位:前 250~前 247)となる、しかし、前 247年に急死すると、秦本国に戻っていた数え年13歳の嬴政が秦王を即位した。 秦王は、数々の苦難を乗り越えて、中国の統一を成し遂げ、自ら「皇帝」という称号を用いた。
始皇帝は、統一の実をあげるため、さまざまな政策を進めた。 まず全国を36の郡の行政単位に分け、長官を派遣し、また、度量衡(長さ、体積、重さ)、文字などを統一し、統治の円滑化を図った。 帝都の市井は、始皇帝の権力、および製品管理体制の整備などによってさらににぎわい、その活況は地方都市にも波及したことであろう。

・80 《取水口》 1個 陶製 高 31.5、口径 61.8~63.0 戦国~秦時代・前 3世紀 咸陽市咸陽宮殿址出土 秦咸陽宮遺址博物館 / ・81 《L字形水道管》 1個 陶製 高 36.0、長 37.5、幅 28.0、外径 21.3~26.5 戦国~秦時代・前 3世紀 咸陽市咸陽宮殿址出土 秦咸陽宮遺址博物館 / ・82 《水道管》 1個 陶製 長 60.5、外径 23.2~28.8 戦国~秦時代・前 3世紀 咸陽市咸陽宮殿址出土 秦咸陽宮遺址博物館
© 陝西省文物局・陝西省文物博物局・秦始皇帝陵博院

 秦を支えたインフラ整備 組合わせ式の陶製の水道管。 漏斗状の大きな受け皿とL字形が連結し、さらに円筒状の管を横方向に連続させて地下に水を流した。 こうした水道管はいくつも連結させ長距離にわたり敷設されていたと考えられる。 同様の導水施設は始皇帝陵をはじめいくつか発見されている。 本例のような導水施設は始皇帝の地下世界を水害から守る治水対策の一環で用いられ側面もあり、秦の高度なインフラ整備の一端をかいま見ることができる。


第Ⅲ章 始皇帝が夢見た 「永遠の世界」 ―兵馬俑と銅車馬

第Ⅲ章 始皇帝が夢見た 「永遠の世界」 ―兵馬俑と銅車馬
Ⅲ-1 小さな兵馬俑 / Ⅲ-2 兵馬俑―「永遠」 を守る軍団 / Ⅲ-3 銅馬車―始皇帝の魂をのせて

 兵士や軍馬などをかたどったやきものの像、兵馬俑を見れば、服のしわ、髪の節目まで丁寧に表しただけでなく、約 8000 体もありながら、1体ずつ違うとされる顔の造形は、実在の将兵をモデルとしたと考えられている。 始皇帝の墳丘の地下には、未発掘ながら、始皇帝を埋葬した地下宮殿の存在が判明している。 陵園と呼ばれる墳丘の周辺一帯には、生前暮らした咸陽宮殿を中心に、その周囲にあったさまざまな施設、厩舎やお抱え雑技団の劇場などを丸ごと再現し、兵馬俑は咸陽に駐屯した近衛軍団を陣形ごとそのまま写したものであろう。 写実表現は、兵馬俑1体ずつの造形から軍団全体の陣容、さらに宮殿周辺にあった厩舎などの諸施設にいたるまで徹頭徹尾求められた。 そこには皇帝中心の秩序を保った完全なる世界を写しに、始皇帝が死後も永遠に君臨し続けようとした願望をかいま見ることができる。

右・101-1 《騎兵俑》 1組(軍馬と) 陶製 高 185.0、幅 54.0 秦時代・前 3世紀 西安市臨潼区始皇帝陵2号兵馬俑坑出土
秦始皇帝陵博物院 / 左・101-2 《軍馬》 1組(騎兵俑と) 陶製 高 172.0、幅 203.0 秦時代・前 3世紀 西安市臨潼区始皇帝陵2号兵馬俑坑出土 秦始皇帝陵博物院
© 陝西省文物局・陝西省文物博物局・秦始皇帝陵博院

 右・101-1 《騎兵俑》― 騎乗用の装備を着用― 2号兵馬俑坑は、平面形が L字型に展開する地下坑で、総面積 6000 平方メートル。 前方に立射俑・跪射俑を配し、その後方に騎馬兵と戦車隊が並べ置かれていた。 本品は軍馬と相接して置かれ、手綱や武器を手にしていた。
 左・101-2 《軍馬》― 引き締まった馬体 ―2号兵馬俑区に騎兵俑とともに並べ置かれていた。背中に騎乗のための鞍があり、それが二重構造である点は北ユーラシアに展開する騎馬文化と相通じるものである。 実戦馬という視点から見ればこれは飾りなどではなく、実用的な用途があると想像される。



始皇帝の魂を乗せて

© 陝西省文物局・陝西省文物博物局・秦始皇帝陵博院

 永遠の帝都、その構成を再現する ―1970年代、世間の衆目を集めた兵馬俑坑の発見は、広大な規模の秦の始皇帝陵の氷山の一角をあらわにした。 豊富な埋蔵品を誇る巨大な墓の主は、戦国時代の六国との争いを終わらせて天下を統一し、自ら始皇帝と名乗った嬴政である。 彼は皇帝が最高の権力をもつ皇帝集権制の大帝国、秦を築いた。 秦王朝が創始した統一の規範と国家の支配体制は、2000年以上にわたって東アジア地域の政治、経済に影響を与えた。… 1987年、ユネスコは秦の始皇帝陵を世界遺産に登録した。 その会議の紀要のなかで、これを世界最大の考古学の成果のひとつであると称え、全人類の高度な知識を表わすものとして、きわめて高い評価を与えた。…(図録からの抜粋文章です。)   張 衛星 (秦始皇帝陵博物院 研究館員)

始皇帝略年譜

前 259 昭襄王 48年 嬴政、人質として送られていた秦の公孫(後の荘襄王) の子として趙国で生まれる。
前 247 荘襄王 3年 秦の荘襄王、死去。 秦本国に戻っていた嬴政が13歳で秦王に即位。 翌年が秦王政元年。
前 237 秦王政 10年 秦王政が嫪毒の反乱を前年に鎮圧。 政を補佐してきた重臣・呂不韋を罷免し、親政を始める。
前 230 秦王政 17年 秦が韓を滅ばす。
前 227 秦王政 20年 燕の刺客・荊軻による政の暗殺未遂。
前 225 秦王政 22年 秦が魏を滅ばす。
前 222 秦王政 25年 秦が燕・趙(代)、楚を滅ぼす。
前 221 始皇帝 26年 秦が斉を滅ばし、中国で初めて天下を統一。 秦王政は皇帝を号し、始皇帝となる。
前 219 始皇帝 28年 始皇帝の巡行。 泰山(現山東省)にて封禅の儀式を行なう。
前 218 始皇帝 29年 始皇帝、巡行途中の博浪沙で暗殺未遂に遭う。
前 215 始皇帝 32年 秦が北方の騎馬民族・匈奴と戦争。
前 214 始皇帝 33年 秦が南方と北方に領土を拡張。
前 213 始皇帝 34年 始皇帝が長城を築造させる。 いわゆる 「焚書」 を行なう。
前 212 始皇帝 35年 始皇帝が阿房宮を造営させる。 いわゆる 「坑儒」 を行なう。
前 210 始皇帝 37年 始皇帝、第5回巡行の途中で死亡。 末子・胡亥が二世皇帝に即位。

 始皇帝とは 嬴政は前 259 年に秦王の人質として送られていた公孫(後の荘襄王) の子として趙国で生まれた。 数奇な運命によって、秦本国に戻り、前 247 年に数え年 13 歳で秦王に即位した。 即位後は重臣・呂不韋の補佐を受けたが、前 237 年に嫪毒の内乱に加担した疑いで呂不韋を処罰すると、自立して親政を始めた。 前 230 年以降、秦王・政は韓を筆頭に他国を次々と滅ぼし、前 221 年には中国で初めて天下を統一した。 これを機に、政は王を超える地位である 「皇帝」 を創出し、初代の皇帝、すなわち始皇帝となった。 しかし、前 210 年に50歳で亡くなると、わずか3年で秦は滅びてしまう。


お問合せTel:03-5777-8600 (ハローダイヤル)
展覧会公式サイト:http://heibayou.jp
主催:
東京国立博物館、陝西省文物局・陝西省文物交流中心、
NHK、NHKプロモーション、朝日新聞社
後援:中国大使館
協賛:野崎印刷紙業 協力:全日本空輸

参考資料:「始皇帝と大兵馬俑展」図録、 PRESS RELEASE 他。
※写真撮影など掲載は、主催者の許可を受けて行っております。
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